「影像2013」 参加作家インタビュー(9) 湊雅博さん

協同の場から生み出される写真の可能性

湊 雅博

1写真家として自身の作品制作を続ける傍ら、UP FIELD Gallery(2005-2012)のディレクターとして「フウケイを取り扱う写真家のあらたな表現」を構築する写真展、グループ展を企画運営する。
UP FIELD Gallery閉廊後もディレクターとして「風景に係わる写真家の表現と可能性」を表象するグループ展を企画立案し、2013年3月にPlace M&M2galleryで「リフレクション」展を開催。

個展
2004 「界-Border」再春館ギャラリー
2006 「累」UP FIELD Gallery
2008 「環-fusion」UP FIELD Gallery ほか

グループ展
2007 「記憶の位相?Aspects of Memory」UP FIELD Gallery
2008 「Invisible moments」UP FIELD Gallery
2009 「LAND SITE MOMENT ELEMENT」UP FIELD Gallery
2010 「ながめる まなざす」UP FIELD Gallery ほか

 

1968年という時代の中で

──今日は、35年前に出版された最初の写真集『海 No Maritime Mind』(Trans Inc、1978年刊)を持ってきました。

なつかしいですね。この写真集は金子君(編集者注:金子隆一氏。現在、東京都写真美術館専門調査員)と作ったんです。あと築地君(編集者注:写真家の築地仁氏)も手伝ってくれて。500部限定だったので、僕の手元にはわずかしか残っていないんですよ。
金子君とは大学時代からの長いつきあいで、1976年に新大久保にできたばかりのプリズムに誘ってくれたのも彼でした。この自主運営ギャラリーで僕は多くの写真家と出会うことができたし、またいろいろな写真表現があることを知ったんですね。自分の写真を何らかの形にしたいと思いはじめたころ、ちょうど金子君は撮ること以外で写真に関わることができないか模索していて、それでいっしょに写真集を作ろうということになったんです。

──湊さんにとって、波の表情を撮ったこの写真が初期の作品といっていいのでしょうか。写真をはじめたのはいつごろですか。

中学の時から写真に興味はありましたが、本格的に撮りはじめたのは大学の写真部に入ってからです。税理士の家に育って、跡を継ぐために中央大学の商学部に進学したので、サークルくらい好きなことをしようと思って写真部に入ったんです。
僕が入学したのは1966年で70年安保に向かっていろいろな物事の価値が大きく変化をしていく時代でした。大学全体が政治に染まっていて、たいていの文科系サークルは左翼系だったんですが、写真部はそれほど過激ではなかった。当時、全日本学生写真連盟の思想的な後ろ盾のような存在だったのが写真評論家の福島辰夫さんで、僕も全日本学生写真連盟(全日)の一員として、写真に対する考え方・見方からはじまって、連盟の方針なんかを福島さんと話し合う日々を送りました。

全日本学生写真連盟と福島辰夫

福島さんを中心とした全日の運動は65年ころからはじまっているんですが、そこには六〇年安保の時、写真家が時代のうねりに対してほとんど何もできなかった、という福島さんの思いがあったんですね。当時の写真家の仕事としては、濱谷浩さんの写真集『怒りと悲しみの記録』(河出書房新社、1960年刊)が出たくらいでしたから。

──今年の5月に東京都写真美術館で開催された「日本写真の1968」展は金子さんの企画でしたが、そこにも全日の写真がけっこう展示してありましたね。湊さんは当時、どういう写真を撮っていたんですか。

東京の街のスナップショットです。あとは1968展にも出ていた「北海道101」の集団撮影行動に僕もロケハンから初期には参加していて、金子君もメンバーでした。
写真をどんな形で成り立たせるか、あの時代においてそれは社会や世界に対する外的な問題であるだけでなく、学生一人ひとりが自らの内へ向けた問いでもありました。地方出身の学生が都市と田舎の格差に対峙したり、女子学生は当時まだ厳しかった家の縛りのようなものに悩んだりといったような、個人個人が抱えている事例から僕らは課題を掘り起こして、写真を作っていこうとしていました。左翼であろうがノンポリであろうが、誰もが自分の立ち位置を常に確認しながら写真を撮っていたような気がしますね。

──福島さんは1957年から「10人の眼」展を企画して、六〇年安保のころは、細江英公さんや東松照明さんたちのVIVOの活動のそばにおられたのですよね。

そのころから、若い世代の写真家を育てていきたいという気持ちがあったようです。
全日のコアなメンバーは30人ほどいて、当初はお茶の水の喫茶店に集まっていたんですが、公安のチェックが入ったりしてうるさいので、会合のためにみんなでお金を出し合って、阿佐ヶ谷に一軒家を借りました。福島さんもひんぱんに顔を出していましたし、東松照明さんや川田喜久治さんのお話を聞く事もありました。
最近、1960年代当時の福島さんの写真評論がまとめて出版されて(北野謙編集『福島辰夫写真評論集』全3巻、窓社、2011年刊)、感慨深いものがありますね。

辺境の風景を撮りはじめる

──その後、多摩芸術学園(多摩芸)に移られます。

こんな調子でしたから中大で卒業するのはむずかしくて、写真をやっていくためにどこかに弟子入りしようかと考えていたら、親父が写真の学校はないのか、と。渡りに舟でした(笑)。
多摩芸ではまだ東松さんがいましたし、近藤耕人さんが教鞭をとっていた時期でした。近藤さんはけっこう僕をおもしろがってくれて、彼のゼミに入って写真や文学の話をずいぶんしましたね。
卒業後は研究室で1年半くらい助手をやりました。作家になるつもりだったので、仕事の合間に作品を撮る時間が持てると思って。でも、いかんせん給料が安い。結婚の予定もあったし、フリーランスでやっていこうと学校を辞めました。
『海』に入っている作品を撮っていたのはこのころです。松田政男の『風景の死滅』(田畑書店、1971年刊)で、日本の風景が均質化されていくさまを示した新しい風景論に刺激されて、中心と縁(へり)の関係を考えるために日本の辺境と呼ばれる場所に足を運ぶようになりました。でも撮っていたのはランドスケープで、特に海だけに絞っていたわけではありませんでした。

『海』を作る過程で見えてきたもの

写真集を作ろうということになった時、最初はこの辺境のシリーズでまとめようと考えていました。各地の写真をアトランダムに並べて、全体で日本の辺境の姿を浮かびあがらせたいと思っていた。でも、どうしても写真が説明的になってしまうんですね。それでふと、この中から海の写真だけ集めてもおもしろいなと思いついたんです。
僕の中にはずっと、社会の中で写真を成立させるという福島さんのリアリズムがありました。ところがプリズムに通うようになると、そこで見る写真はそういったこととはまったく逆の、自分たちの表現をとことん目指している感じだった。そんな中で写真に意味を持たせることに僕自身、限界が見えてきてしまっていました。
偶然ですが、海は場所性をまとっていないという点で説明から抜け出すのに好都合の被写体でした。それに波のうねりや光や空気の変化とか、言葉で説明できない魅力があって、なんと言えばいいのかな……それを写真として見せた時、何かの意味から解き放たれた、ただ写真として在るという感触があらわれてくるのではないかと期待したんです。

──写真集には平出隆さんのすばらしいテキストが入っていますね。

多摩芸で同窓だった稲川君(編集者注:詩人の稲川方人氏)に平出さんを紹介してもらって、写真を見せてお願いしたら「書きます」と言ってくれて。
この時、平出さんが、預かった写真を自分の周りにぐるりと並べて書いたと聞いたんです。実はそのことが僕の中でその先の写真を考えていく大きなヒントになりました。写真は1枚に意味を持たせなくとも、まとまりでイメージの成り立つところがあるということ、それは写真の可能性を探っていく上で今も重要な手がかりになっている気がします。

意味をそぎ落とした写真とは

──湊さんはご自身のウェブサイトに、「世界の断片を断片のままとどめていく」ことで、「絶対的な風景」が立ちあらわれるということを書いています。風景についてどういう考えをお持ちですか。

「風景」をどう考えるか、という問いは辺境を撮っていたころからずっと頭の中にあります。人は自分の記憶知の中で状況を判断しますよね。風景を撮れば、それはどうしても場所に対する写真家の認識が付随した写真になる。でも僕は、場所も意味も含まない風景が、写真として存在できないかなと考え続けてきました。
『海』を出版した後コマーシャルの仕事に専念するようになり、10年ほど制作から離れていたのですが、1986年にプリズムのメンバーの住友博さんがFOTO MANIA展(世田谷美術館区民ギャラリー)に参加しないかと誘ってくれたんですね。このグループ展はプリズムに係わっていた若い写真家達が、閉廊後に大辻清司さん宅に定期的に集まった時期が有って、その当時の写真家が参加したので僕とっては非常に刺激的な展示でした。

当時、バブル前夜の東京周辺はめまぐるしく風景が変わっていた。もはや東京そのものが中心と辺境を抱えているような状況があって、それを写真にしてみることにしたんです。方法論とか概念的なものから離れて、自分が生きている場所をそのまま写しとろうという気持ちでした。
このグループ展がブランクを埋めるきっかけになった気がします。風景と写真についてずっと考えていたことを試すことができたし、仕事と並行して制作することができるという手応えもあって、いろいろなことが吹っ切れたんです。
その後、2004年の個展(「界-Border」、再春館ギャラリー)で90年代に仕事の合間に撮りためていた作品を発表した時、『美術手帖』に土屋誠一君がレビューを書いてくれた(2004年7月号)のを読んで、「やってきたことは、まちがいではなかったんだな」と思いました。東京湾岸あたりで道端に転がっている鉄を撮ったような写真なのですが、何の目的も持たせず、自分の目に留まったものを、ただ純粋にイメージの強さだけで写真として成り立たせた作品に対して、「これこそが写真ではないか」と書いてくれたんです。

グループ展を企画する意図

──意味性をそぎ落とした写真の在りように、一貫して取り組んでこられたわけですが、近年、写真自体に変化が生じているように感じます。

それはおそらく、僕がグループ展を組織するようになったことと関係しているのかもしれません。2007年以降、自分より若い作家と一緒に新しい「風景」を考えるグループ展を作ってきて、彼らとの交わりの中で自分の作品も変わっているんだと思う。
作家としてやっていこうとする時、一人でバイオグラフィを積み上げていくことは可能です。自分だけで取り組んでいくことはできるけれど、やはりそこで生み出せるものは個人の範疇に納まるものでしかない。でも写真の枠組みっていうのは、もっと広いものだと僕は思うんですね。個性の表現とか個人の業績としてではなく、写真そのものが根源的に誰かに帰すものではないという気がしていて。

──福島さんとのつき合い以降、方向の違いはあるにせよ、協同の場で写真を生成させていくということが、ずっと湊さんにはあるんですね。

そうですね。やはり福島さんの影響は今も残っているのかもしれません。
たとえ幻想であっても、もし「自分の写真」というものを考えていくなら、それが写真界の中でどこに位置するかということに自覚的でなければいけないと僕は思います。それは評価の良し悪しということではなく、表現に対する意識という意味での位置です。でもそれを見つけることは時にとても難しい。だから他の作家との協同作業を通じて、自分独自のもの、他との差異を確認していくしかないと思うのです。僕がグループ展を企画する第一の理由は、そこにあります。
あと、やはり従来の風景写真という概念を壊したいという思いがずっとあるんですね。

──グループ展をディレクションすることと、「風景」の枠組みを作り変えるということは、一体のものであるということでしょうか。

マニアックな活動のように思われているようですが、僕は縁(へり)にいるつもりはないんです。確かに少数派ですが、こういう意識も写真の取り組みとして存在するんだということを、これからも示していきたいと思っています。
若いころ、まだ何も手にしていない時に探求していたことには、実は大切なことがいっぱいあるのではないでしょうか。作家として生きていくか否かにかかわらず、それを自分のつらなりとして持ち続けていかなければつまらないと僕は思う。
「影像2013」展では久しぶりに自分の作品を展示することになりますが、ほかの出品者の作品を見たり話をしたりしながら、自分でも新しい試みを展開していくつもりです。お互いから何かを見いだして自分に取り込んでいく、格好の機会となることを期待しています。

(2013年11月4日、インタビュアー:大日方欣一 撮影:小平雅尋)

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