「影像2013」 参加作家インタビュー(4) 潮田登久子 さん

大辻先生の〈遊び〉の痕跡を見つめて

潮田登久子

1940年東京生まれ。1963年桑沢デザイン研究所写真科卒業。1966年(〜1978年まで)桑沢デザイン研究所および東京造形大学講師を務める。1975年、フリーランスの写真家としての活動を始める。

個展
1976 「微笑みの手錠」新宿ニコンサロン
1989 「生活」Film Round Gallery
1992 「冷蔵庫/ICE BOX」東京デザインセンター
1994 「帽子」Gallery MOLE
1998 「冷蔵庫/ICE BOX」三菱地所アルティアム・福岡
1999 「冷蔵庫/ICE BOX」世田谷区文化生活情報センター生活工房
2001 「帽子」Contemporary Photo Gallery
2002 「聖歌」Contemporary Photo Gallery
2003 「Biblioteca 本の景色」Contemporary Photo Gallery
2004 「Biblioteca “Bookmart”」Contemporary Photo Gallery
2006 「Biblioteca 本の景色」明治学院インブリー館
2008 「冷蔵庫/ICE BOX」Port Gallery T・大阪
2009 「冷蔵庫/ICE BOX」Cafe Unizon・沖縄
2012 「Biblioteca 本の景色」Port Gallery T・大阪 ほか

グループ展
1995 「写真都市/TOKYO」東京都写真美術館
2004 「まほちゃんち」水戸芸術館現代美術ギャラリー
2008 「China/Biblioteca/Manga」Lee ka-sing gallery(トロント)
2011 「Reinventing Tokyo」Mead Art Museum(アマースト) ほか

出版
1996 写真集『冷蔵庫』(光村印刷株式会社)
2004 写真集『帽子』(パロル舎) ほか

 

「先生のアトリエ」から

──今回のグループ展では、恩師である大辻清司さんの自宅のアトリエを撮影した作品を出品されますね。

2001年に大辻先生が亡くなられて3、4年ほど経って、先生の本棚を撮らせていただくために、代々木上原のご自宅にうかがいました。そのころ私は本をテーマに写真を撮っていたので、奥さまにお願いして先生の書棚も撮影させてもらおうと思ったんです。実はそこで本以外の写真もたくさん撮らせていただきました。敷かれた汽車のレールがほこりを被ったままの未完成のジオラマとか、文明堂のカステラの箱や山本山の海苔の空缶を利用した工具入れ、ねじや釘を入れたインスタントコーヒーの瓶などです。そういったものを見ていると、先生の遊びの楽しさが伝わってきて、しみじみと良いなと思いました。アトリエが整理されて、作品や資料の多くが武蔵野美術大学に納められるまでの数年間、たびたび通って撮影しました。
先生の本棚を写したものは、「本の景色」という展覧会でお見せしたことはありましたが、そのほかはまだ発表したことがないので、今回はじめての展示となります。

──大辻さん自身にもアトリエでオブジェを撮っている作品がありますが、ぐっと密室感が強い。潮田さんが撮ると、同じ空間でも通気性があるように感じます。

私はどうもひとつのことに集中できない性格のようで、あちらこちらへ気が散ってしまいます。それが通気性を生み出しているとするなら、そうかもしれません。一点集中でなくて、一点拡散なんです。先生のお宅のすぐ近くが商店街なのですが、そのアトリエで撮影をしていると、近所の人びとのお喋りや子どもたちの声が建物の中を通り抜けていくのね。先生はそんなところが気に入っていらしたんじゃないでしょうか。篠原一男さんが設計したモダンな建築物だけど、下町の好きな先生らしい自分流の住み方をしていらして、魅力的な空間になっていましたね。

代々木上原と少女時代

──潮田さんも子ども時代は、代々木上原に住んでいたと聞きました。

小学校に入る前のことね。大辻先生が今のお宅を建てる前に住んでいらした木造の家を解体していく写真がありますけれど、あの家と同じ間取りの仕舞屋(しもたや)が代々木上原のあの辺りにはたくさんあって、そのうちのひとつに住んでいたんです。おそらく先生のお宅と道を隔てて隣くらいの場所です。だから先生のあの写真を見ると、とてもなつかしい。当時も商店街があって、下町のような雰囲気はあまり変わっていないと思います。坂の上にある家だったので、坂道を走ったりジャンプしたりして遊んでいた夢を今でも見るのは、あの頃の景色が記憶のどこかに強く焼き付いているのかもしれませんね。あまり利発な子どもではなかったと思うんですが、元気だけが取り柄で(笑)。
その後、秩父に疎開して終戦をむかえ、豪徳寺に移りました。それ以来、ずっとここに住んでいます。
桑沢デザイン研究所のテストを受けたとき、私の本籍地が代々木上原なのを見て、大辻先生が「あれっ?」と言われたのを覚えています。当時、満州から引き揚げた私の親戚一家がそこに住んでいたので、「あの潮田さん?」と聞かれて。ヴァイオリンを習っている従妹(編集者注:のちに世界的ヴァイオリニストとなる潮田益子さん)がいたのですが、その練習中に、先生のお宅に遊びに来ていた高梨豊さんや新倉孝雄さんが通りでキャッチボールをしていると、うるさいからって叔母が怒ったそうなんです。その話を桑沢の面接試験のときにされたの。それが先生とはじめてお会いしたときの思い出です。

花嫁修業から写真の世界へ

──どうして桑沢デザイン研究所に入ろうと思われたんですか。

恥ずかしながら、花嫁修業のつもりだったんですよ。私たちの世代は、理想は良妻賢母なんていわれて、高校か短大を卒業してからちょっとお勤めして、花嫁修業をするのが普通でした。でも私はお茶とかお花とかお料理なんてあまり興味がなかった。今から思うと安易ですけれど、デザインでも勉強して家の中を楽しくしたいなと思ったの。そんな動機だから、デッサンだってまともにできないし、デザインだって分かっていない。新しい世界で毎日楽しかったですけれど、授業についていくのが大変でした。カラス口を研いだり、ポスターカラーをムラなく塗ったり、ひとつひとつがはじめてのことばかりでした。校舎が青山から渋谷に移ったころで、当時、学生だった人には後にデザイン界や写真界で活躍する錚々たる人たちが大勢いました。

──写真はいつからはじめられたんですか。

2年生の石元泰博先生の授業からです。基礎デザインの中に写真の授業がありました。写真は周りの同級生も私と同じスタートラインからだったからうれしかった。一所懸命やりました。それから3年の研究科で大辻先生とめぐりあって、いつのまにか写真の世界に(笑)。児玉房子さんや牛腸茂雄さん、佐治嘉隆さん、齋藤さだむさん、関口正夫さん、三浦和人さんも、みんな大辻先生の魔法にかかったのかしら。石元先生や大辻先生に出会わなかったらって考えると、こうやって写真をやっているのが今でも不思議に思いますね。
桑沢を卒業して1年くらいフリーターをしていたんですが、学校から「助手をしませんか」と声をかけられて、5年間くらい写真科の助手をしました。そのあと東京造形大学のテキスタイル学科で学生の作品のポートフォリオを作ったり、資料作りのお手伝いのようなことをしました。そんな時期に、島尾(編集者注:島尾伸三さん)と出会って“思いがけない展開”になって(笑)。

ひとつのテーマを20年も

──桑沢時代、街のスナップをよく撮っていらっしゃいますね。

繁華街に出て、人にぶつかるようにして撮るというのは当時けっこうみんなやっていて、初個展「微笑みの手錠」(新宿ニコンサロン、1976年)では、新宿や渋谷、大阪の新世界などで撮影したスナップショットを並べました。『カメラ毎日』の編集長だった山岸章二さんに何点か使っていただいたこともあります。
モノを撮りはじめたのは「冷蔵庫」の頃から。まほ(編集者注:しまおまほさん)が生まれてずっと家にいたので、部屋で冷蔵庫を撮ったのがはじまりです。島尾が道端の進駐軍の払い下げ屋で半分壊れかけているすごく大きな冷蔵庫を1万円で買って、3万円もかけて運んでもらったことを思い出します。ひと部屋に3人の小さな暮らしなのに、大家族が使うような大きな冷蔵庫がデンと居座って、ほかにはろくに家具もなく、金銭感覚や生活感覚がアンバランスでちょっとずれたおかしな生活でした。それを記録してみようと思ったのがはじまりです。
それから大家さんとか親戚とか、友だちの家の冷蔵庫を撮らせてもらうようになりました。冷蔵庫って、家庭によってずいぶんと使い方が違うのだなあと思いました。何か所も撮り続けているうちに様々なことが見えてきました。生活のしかたが見えるのがおもしろいんですね。
私はひとつのテーマを見つけると長いんです。「冷蔵庫」は20年以上、「帽子」もほぼ20年、「本」の写真も撮りはじめてもう十数年、どれも延々と続けているんですよ。

──「本の景色」のシリーズはどんなふうにはじまったんですか。

ある日、机の上にあったみすず書房の丸山真男の白い本(編集者注:『戦中と戦後の間』1976年刊)が目にとまって、「本」ってきれいだなと思ったのがきっかけです。すっごく単純な動機なんです(笑)。分厚くて中身も難しくて読めないけれど、オブジェとして本のたたずまいを撮ってみたいなと思ったの。それ以来、モノとしての本が主題となりうるのか、自問自答しながらの撮影がはじまりました。

本をオブジェとして撮影する

いろいろなご縁があって、国立国会図書館の修復室とか、大学図書館の貴重書庫、古書店などを訪ねて、室町時代の仏教本を修復するところを見せてもらったり、ぼろぼろの古い革装丁の貴重な洋書を触らせてもらったり。とても恵まれていました。でも、書物の外側だけを写すことに疑問を抱きながら、一方でそれでもやりたいという思いが強くあって、いつも揺れながら撮っていました。
ヨーロッパの教会の祭壇にあったという大きな祈祷書を撮らせていただいたこともあります。木枠に入った革の表紙にいっぱい傷が付いているのを見ると、その本が生きてきた道を想像してしまいます。四隅に金属の装飾がついている立派なもので、15世紀の書物だと聞きました。事情があって借金のかたになってしまって、1ページずつ売られてズタズタになっているのを見て、ふしぎな物語を感じながら撮影したのを覚えています。祈禱書だけに、なにか厳しい定めのようなものを感じてしまいます。
京都の小学校で撮影させてもらった、2年生の子の国語辞書もとてもおもしろかった。新しい言葉が出てくるたびに、辞書をひいてそこに付箋をつけて言葉をおぼえていくという教育をやっていらっしゃる先生がいて、子どもたちはいつも手元に辞書を置いて、ゲームのように言葉を調べるのね。拙い字で単語が書かれた付箋がいっぱい挟まって、白菜みたいにボワッて広がった辞書を撮っていると、それがその子の頭脳そのものみたいに見えてきて。
こんなふうに「本の景色」のシリーズは次々にモチーフが見つかって、その流れの中に大辻先生のアトリエもあったんです。

遊びのように続けていける

先生の本棚の一部では、長年の湿気などで雑誌や本が朽ちて土に戻っていく姿を目の当たりにしました。でも、その空間に写真のことだけではないすべてが詰まっているような感じがして……先生の脳みそであり、先生が生きてきた道。私の知っている写真の世界の先生だけではない、特別ななにかを見せていただいたなという感じがしています。
アトリエにある本やモノたちを見ていると、先生の人となりが見えてくる。それは、穏やかなだけではない激しさ……ひそかに攻撃的というか、一筋縄ではいかないような部分ですね。

──そういう激しさのようなものを、生前の大辻さんから直接感じることはありましたか。

下町の江戸っ子気質で、啖呵を切ってしまうようなところがあったように思います。私も東京生まれ東京育ちですから、その気持ちがなんとなく分かる。物腰はゆったりしていらっしゃるけれど、キッパリとものをおっしゃるところとか、アトリエに残されたモノを撮っていると、そんな一面が思い出されましたね。私が勝手にそう解釈しているだけなのかもしれませんが。
主のいないアトリエで私は、“写真という遊び道具”がこの世にあることを教えられたような、人生の処し方のレッスンをうけたような気がしています。おかげで写真のことだけというよりは、頭の中と外界との間にいつもレンズがあるみたいな感じです。
先生にお世話になった人はみんなそうだと思うのですが、あの姿を見ているうちにいつのまにか身についてしまっているものがある。どうやって撮ったらいいかな、と考えてやっているうちに、カメラが手放せなくなって写真の世界から抜けられなくなる。そのうち、ずっと長いあいだやり続けているようになる。まるで遊びみたいにね。先生のそういうところ、私は大好きなんです。そして改めて、つくづくすごい人だなと思うんです。
教えを受けたことについてはまだよく分かっていないところもあるんですが、写真を続けていて、なんだか人の生き方について考えさせられるんです。「御天道様(おてんとうさま)と、ごはんがあれば、どうにでもなりますよ」と授業の時におっしゃっていたことを思い出します。私も「まー、どうにかなるさ」という気持ちで、先生の言葉を実践しているつもりです。

(2013年8月11日、インタビュアー:大日方欣一 撮影:小平雅尋)

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