「影像2013」 参加作家インタビュー(7) 行竹亮太さん

まだ見ぬ風景の出づる方へ

行竹亮太

1986年広島県出身。2011年多摩美術大学映像演劇学科卒業。
2009年より、写真家、映像作家として活動を始める。

グループ展
2010 「126polaroid さよならからの出会い」横浜美術館アートギャラリー
2011 「たまたま展」 小金井アートスポットシャトー2F
2011 「多摩美術大学映像演劇学科卒業制作展」BankArt 横浜 ほか

出版
2010 写真集『126POLAROID さよならからの出会い』(共著、赤々舎)

 

目に見えない概念をうつしたい

──多摩美術大学を卒業して、広告撮影のアシスタントの仕事を続けながら作家活動をされていますが、まず、作品をつくりはじめたきっかけを聞かせてください。

高校は普通校で特に美術部にも入っていなくて、制作をはじめたのは大学に入学してからです。でも、中学・高校と吹奏楽でサックスを吹いていました。あと映画が好きだったんです。それで映画をやろうと思って美大に行きました。そこで美術やデザインや写真といった表現の深いところを知った感じです。映画の世界も僕がそれまで見てきたものとはぜんぜん違って。
卒業制作では波を撮った映像作品を出しました。はじまりも終わりもないモチーフを映画にしようとした作品です。ここからここまで、と時間に境界を引くのが映画だと思うのですが、自分の手から離れた力でその区切りをつけられないかと考えました。

──海辺の映像を投影したものをさらに8mmで撮影して、インスタレーションとして展示していましたね。現在はどんな作品を制作中ですか。

今、3つの写真のプロジェクトを進めていて、1つは、スピードを写真にするとどうなるか、と考えて撮影している作品です。車の中に4×5のカメラをセットして、走らせながら風景を撮るのですが、同じ場所でも走行速度によって見えるものが違う。30キロ、50キロと速度を変えて撮っています。8mm映画を撮る時、毎秒24コマとか36コマとか撮影速度を変えることから発想して、これを写真でできないかと。
もう1つは「重力」の撮影です。これは学生時代からつづけているのですが、実家のある広島の鍾乳洞をまわって洞内を撮っています。名づけられてはじめて存在が確認されるものってありますよね。そういう認知の仕組みに興味があって、名前をつけなければ認識できないもの、例えば、重力は人類が誕生する以前から地球上にあったけれど、「重力」と人間が命名する前にはその形は見えなかった。それを端的に示す形はないだろうかと探して、鍾乳洞を撮るようになりました。円錐形の鍾乳石を重力のオブジェとして見たらおもしろいのではないかと。自分の中に「スピード」や「重力」といった一種の概念を、目に見える姿で差し出してみたいという欲求があるのだと思います。
でも3つめの作品は、前もってコンセプトのようなものがないという点で、ちょっと今までの制作とは違っていて……。

風景になる瞬間とはなにか

──「影像2013」展では、その3つめの作品を展示する予定ですね。今までと異なっているというのは、どういうプロセスで撮影しているんですか。

夜、仕事を終えた後に森を撮りに行っています。暗闇の中、長時間露光でカメラを向けるとかすかな夜の空の光で森の奥がうつし出されるんです。暗闇といっても光がある。カメラのライトが届くところにだけピントがきていますが、実際は真っ暗なので、その風景は撮影している時にはまったく見えない。見えない中で画格も決めずピントも合わせずに、ただバシャッとシャッターを切ります。撮影をはじめた時は、どんな画面になるか予測がつかなかったのですが、何度も撮っては画像を確認しているうちに、ある程度はどんな感じにうつるか分かってきたところです。
撮れた写真を見ると、どれもきちんと「風景」になっているんですね。それがとても不思議だしよく分からなくて……今までは、こういう風に撮ろう、こういう作品を撮ろう、というヴィジョンを先にきっちり持っていたので、今回のように何が撮れるか分からないまま撮りはじめるというのは、実ははじめてなんです。

──「風景になっている」というのは、どういうことですか。

風景として絵になるというか……以前から、なんでもない景色が、写真に撮るとちゃんとサマになってしまうことに違和感がありました。平凡なところが突然「風景」になる瞬間があるのかもしれないと、ずっと考えてきて。それがあるとしたら、どういう時でどういうスイッチが作用しているんだろうか、と探ろうとした作品もあります。
日中は薄汚く見える高速道路の脇の壁が、夜になるとぱっとすごく美しくなるんです。まさに一瞬で「風景」になる。その切り替わりがおもしろくて撮ってみたり。

問いを検証するツールとしての写真

そういう目で見ると、いつ、誰に撮られてもそれなりの絵になってしまう観光地ってすごいなと思います。あれだけ誰もがこぞってカメラにおさめようとする場所は、そうそうないですよね。みんなが写真に撮りたくなるところってなんなんだろう。風景ってなんなんだろう、って考えてしまいます。
それで以前、観光地を撮ってみたことがあります。雷門や東京タワーを撮影して、記憶の中の像に結びつけるようにソフトフォーカスをかけて印画紙に焼いた作品です。実像と頭の中に残る像との間にあるものを探ろうとしてみたんですけれど。

──風景に対する問いには、切実なものがあるようですね。

「風景」に限らず、分からなさに対する違和感とか興味が、常に制作の動機としてありますね。映像にしても写真にしても、やってきたことはずっと変わっていない気がします。先ほどもいいましたが、目に見えないことを形にしていくことに惹かれるんだと思う。
誤解を生む言い方かもしれませんが、たぶん僕は特別に写真が好きというわけでもなくて、写真自体にそれほど興味もこだわりもないんです。ただ、やろうとしていることに、どう写真を使ったらいいかを考えてきたんですね。写真は単純にツールだった。だから理由がないと写真は撮れない。そういう点で、北代省三さんの写真はすごく好きだし共感します。北代さんってカメラで遊んでるじゃないですか。それで写真で何ができるかを考えている。
写真の良いところは、一人でできるという点です。映画はたくさんの人が必要で、なかなか自分の疑問を追究することだけに没頭できないですから。逆に言えば、すべて自分が引き受けなければならないという緊張感が、写真にはありますね。

写真的アプローチを追究する

仕事柄、ほかの写真家の仕事を直に目にする機会が多くて、最近は自分の制作を顧みて、もう少しいろいろ試す余地があるなと思いはじめています。僕は今まで現代美術の中で写真を見てきたのですが、いわゆる写真界の人たちの仕事に触れて、その写真的な手法に魅力を感じるようになりました。美しい絵を見せることに力を注ぐという点にも、関心が向くようになって。
これまでの自分の写真作品も、そういう点で見直すともっと深くアプローチできる。もう一度きちんと作品にしてみたいという気持ちがあります。完成した時は、撮りたいものが撮れたと納得していたんですが、当時は今から思えば撮影した時点で完成と考えていたふしがあって、その後の見せる行程まであまり気を使っていなかった。撮るという行為にしか興味がなかったんですね。

──撮った段階で、撮りたいものが撮れたという確信があったんですか。そのイメージが先に頭の中にできているの。

どういう絵にしたいかというのは、すでに頭の中にあって、撮れているという確信もある程度ありました。でも実はできあがった写真を見ると、自分のイメージにぜんぜん追いついていないこともある。先ほどの高速道路の写真なんかは、実像としてとても美しいし、それをさらに僕の頭の中で美化しているので、写真に撮ってもそのイメージ以上にはならないもどかしさがあります。もっと突き詰めてみたい作品のひとつです。
今回、進めている真夜中の森の写真は、そういう意味でスタンスがまったく違うんです。最初にイメージなど何もないまま闇の中で手探りで撮って、後でできあがった画面を見て何かが撮れていることを確認する。僕にとってははじめての感覚です。三脚を立てずに手持ちで撮影するのもはじめてです。

遠/近のゆらぎの中で探るもの

先日、米田知子展(「暗なきところで逢えれば」東京都写真美術館)を見たのですが、やはり写真にうつすことによって見えないものが見えてくるというところに共感しました。コンセプトを明解に前面に出すことに疑問を感じはしたのですが、作家が見る者の側に立っているんだと考えれば納得がいきます。
ここのところ、誰かの視点に立って作品をつくるということに興味を持っていて、他人の目になっていろいろな写真集を眺めてみたりしています。自分だけでビシッと完結した世界ではなく、ふわふわとしたニュアンスが入ってくる余地があるものを撮ってみたくて。もっと軽やかにやってみたい、という気分が、夜の森の撮影にもつながっているのかもしれません。

──今回のグループ展では、行竹さんの作品を第3のセクションに位置づけています。安定した足場をつくらないフラジャイルな要素を抱くことで、遠/近の感覚が組み換わっていくような、そんな空間が出現しそうです。

「遠/近」という言葉を聞いて、森の作品で僕が探ってみたいと思っていることが、分かったような気がします。カメラからの光が届くところと、届かないけれども確実に目の前にある風景、それは実際の奥行きに結びつくことでもあるのですが、その両者がひとつの画面を構成している。無意識にではありますが、そういう差異をあわせもった像をつくり出そうとしているのかもしれません。それは、自分がどこにいるのかという立ち位置を、風景の中に探すということでもあるのかな、と思います。

(2013年8月13日、インタビュアー:大日方欣一)

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